108の鐘108の鐘

 7、比叡山寺の創建と不滅の燈(ともじび)

 延暦7年(788)には、比叡山寺(一乗止観院)を建立し、

「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼじ)の仏たち
我立杣(わがたつそま)に冥加(めか)あらせ給へ」と祈られ、

御自作の薬師如来を本尊とし、そのおんまえに永代不滅の常燈明を自ら供えて、

「明(あき)らけく後(のち)の仏の御代(みよ)までも
光つたへよ法(のり)のともしび」と詠ぜられた。
 8、比叡山寺の落慶

 比叡山のなかで、まことの修行に励まれる大師の行動は、しだいに心ある人々の注目をあつめた。延暦13年9月3日、めでたく竣工した比叡山一乗止観院(のちの根本中堂)の落慶供養の盛儀には、ときの桓武天皇が行幸され、親しくこの法会に臨まれたと伝える。おりから、同年10月には京都に都がうつされ、のちには、比叡山はこの王城守護の根本道場とみなされるようになった。
 9、法華の宣布と高雄講教

 山中の堂舎の整備に努める一方、比叡山新仏教の理念を、中国の天台大師(538〜597)の法華経観に見出された大師は、この法華経の宣布に力を注がれた。そして、延暦21年(802)の夏、和気氏の氏寺である京都高雄山寺での盛大な講演会に於いて、天台大師の三部作「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観(まかしかん)」の各書を講ずるや、大師の名声はたちまち朝野になりひびいた。
 10、入唐求法

 大師は、なお一層、天台の教えを深く知るために、唐(中国)に渡ることになり、弟子の義真を通訳につれた、延暦23年(804)御年38才の7月6日、遣唐使の一行と共に肥前国の田浦を船出された。
 ところが、たちまちに暴風にあい、いまにも船が沈みそうになった時、大師は仏舎利を海に捧げて平穏(へいおん)を祈り、神仏の加護を得て、ようやく9月1日に中国(波寧=ねいは)の地に着くことができた。
 11、天台山での受法

 中国における天台宗の祖山、天台山(浙江省台州)に登り、道邃(どうずい)・行満の二高僧より天台の法門を残らず伝えられた。そのとき、天台山の開かずの経蔵が、八舌鍵(はちぜつのかぎ)で開くことができたので、天台山の僧徒はいずれも驚嘆し、秘密の典籍や法具まで、ことごとく大師に授けたという。
 この八舌鍵は、かつて比叡山の土中より拾われたものであり、いらい、由緒ある重宝として今に秘蔵されている。
 12、天台宗の開立

 正味八ヶ月の在唐受法のすえ、当時の仏教のすべてを学びとって、延暦24年(805)7月に、1年ぶりで無事帰朝された。新たに将来された天台の法門や真言密教の教えを世に弘めるよう、朝廷より、ねんごろな勅宣が下された。
 さらに、翌年延暦25年正月26日には、南都六宗と並んで、天台法華宗(日本天台宗)が公認されるにいたった。