氷上郡天台宗寺院会報
(どうしん)
・・・第2号・・・



「仏になるために生きる」


 『人はなぜ生まれてくるのか』。『生きる目的は何か』。 この世の中が苦しみに満ちていることを 知り修行の道に入られたお釈迦様は、その答えを明確に悟られました。
 お釈迦様は「人間は人間として完成するために、つまり人間は仏になるためにこの世に生まれた。そして、生きる目的は自己を完成することである。だからこそ人生は悩み、苦しみがある」と言っておられます。

 では、仏になるには。それは誰もが持っている善心を用いるということです。人間には必ず善心と悪心がありますが、悪心を抑えて、善心だけを用いるようにしていく。それが、仏への道なのです。
 お釈迦様も人間ですから、私たちと同様に善心も悪心もあったはずです。しかしやがて悪心は全く用いず、善心だけを用いる境地に達せられました。

 『仏』という字は、本来は『佛』と書きました。『弗』の意味は「あらず」もしくは「
○○でありながら、そうでない」ということです。これに人偏がついて『佛』になると「人でありながら人でない」というように、高い徳域にあることを示しています。

 しかし、私たちは全知全能でも不老不死でもない、ただの人間です。限りある人生の中で、絶対に悪心を用いず、善心ばかりを用いる人間として完成することなど、そう簡単には出来ません。

それでいいのです。早急に結果ばかりを追いかけるのではなく、自分一人、自分一代だけで完成できなくてもいいから、とにかく善心善行を心がけて生きていく。そのような努力を続けていくことが「仏教的な生き方」なのです。





「お寺と檀家のきずな」

                            第6部檀信徒会長 福岳 登美雄

 9月の『道心』創刊号を有り難く拝読させて戴きました。これから、会報を通じて六部の寺院と檀信徒との心の通いにされるということは、大変喜ばしい限りでございます。

 さて、このところ菩提寺の改築改修がなされています。これは、それぞれのお寺さんと檀家さんの心の通いの中でなされていることで、頭の下がる思いでございます。誰もが、自分たちの菩提寺を守りたい気持ちは持っています。平和な暮らしの中で、先祖を敬い、寺院と檀家との「きずな」を大切にすることほど菩提寺の繁栄はないと思います。

 仏教に「布施」という言葉があり、その中に財施、法施、無畏施がありますが、誰にでもできる「無財の七施」はお金が無くてもできる七つの善行(施し)です。その実践が一隅を照らし、今できる活動が「お寺と檀家のきずな」に結びつくのではないでしょうか。



「華やかに桂谷寺で落慶法要」

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「住職と檀信徒の協力実る」

 春日町野上野にある照月山・桂谷寺(大瀧孝雄住職)では10月20日、本堂と庫裡の落慶法要が、法縁の寺院住職や諸大徳出仕のもと、大勢の檀信徒に見守られて盛大に厳修された。
 桂谷寺は神池寺ゆかりの名刹。戦国乱世を経て栄枯盛衰の歴史を繰り返してきた。旧の建物は、江戸時代の中期に神池寺の山中にあった一坊を移し建てたと伝えられている。
 
本堂と庫裡の新築建て替えは、前住職(故大瀧慈孝師)の悲願でもあったが、前住職のご遷化後、現住職を中心として、平成11年9月に建築委員会を設立。平成12年7月より工事に着手し、本年6月30日無事完成。檀信徒の物心両面の協力により、待望の落慶の慶事を迎えることとなった。

aaa「ご詠歌衆が練習の成果を披露」

 『落慶お会式、神無月、綾や錦の晴れ姿、老いも若きも手を引いて、さっさ参ろうよ法の山、さっさ参ろうよ法の山
』。

 落慶法要のため一生懸命練習に励んできたご詠歌衆が唱える「来迎会和讃」が流れる中、花御堂を中心に、住職や僧侶、随喜(法要の列席者)の人々、仏様に供える華を手にした稚児の行列が桂谷寺へと向かって村内を練り歩き、法要の始まりを盛り上げた。
「堂内に厳かな聲明の調べ」

 この日の落慶法要は中野寳元兵庫教区宗務所長を大導師に迎え、四箇法要(聲明という節のあるお経を用いた古来よりお祝いに行う特別な法要)により厳粛に執り行われた。
 僧侶たちが聲明の調べを唱え始めると、本堂内は厳かな雰囲気に包まれ、大勢の随喜の人たちは幽玄の世界へと導かれて行った。

 法要に続いて、建築委員長からの経過報告や関係者の表彰、天台宗務総長をはじめ来賓の祝辞なども行われ、檀信徒にとって慶びに満ち溢れた最良の一日であった。




仏教行事の解説   「大 師 講」

 丹波地方の天台宗寺院の多くでは、12月に入ると「大師講」が催されます。ここでいうお大師様とは比叡山を開かれた「伝教大師」をさすのではなく、中国の「天台大師」をいいます。天台大師の遺徳を偲んで営む法要が「大師講」なのです。

 天台大師のお名前は智といい、中国の天台山で修行し天台宗を開かれました。日本の天台宗の名もここに由来し、伝教大師を「宗祖」と呼ぶのに対して天台大師を「高祖」と仰いでいます。

 天台大師の最も大きな業績は、お釈迦様が説かれた八万四千の教典を内容や教えに基づいて分類し、体系づけられたことです。これによって、天台大師は小釈迦と呼ばれます。
 
大師講は、正式には「天台会」あるいは11月24四日が命日なので「霜月会」といいます。丹波地方で月遅れの12月に行うのは旧暦にしたものか、小釈迦ゆえにお釈迦様の成道会と併せたためではないでしょうか。




山寺説法          「何げない一言」   天台宗布教師 荒 樋 秀 晃

 先日、ある会合で一人の老婦人のことが話題になりました。
 この人は息子夫婦と同居しておられ、例によって嫁と姑の折り合いが悪く、息子が居る間はまだしも、会社に行っている時には、常に口論が絶えません。中に入って二人の孫がおろおろするばかりだそうです。

 老婦人は、「私がせっかく洗濯した物を嫁がこれみよがしに洗い直したり、今日は休みで、亡くなった主人の命日だから何か美味しいものをと朝から張り切っていると、若い者だけで外に車で出掛けて、私はお留守番。腹が立つやら、情けないやら。これならいっそ死んで早く主人の処へ行ってしまいたい」と嘆いていました。
 
しかし、最後に一言「でも、孫は可愛いものですよ。特にいちばん下の三歳になる女の
子は、嫁がいない時にそばに来て、『おばあちゃん、おかあちゃんのことゴメンネ』と言ってくれるのです」とうれしげに語っておられたそうです。「私はその一言で、何か救われたような気がしました」と。




天台宗全国一斉托鉢を実施しました

 天台宗では、毎年12月1日を「全国一斉托鉢の日」と定め、「地球へ慈愛(あい)の灯を!」をスローガンに掲げて募金活動を展開しています。氷上郡の天台宗寺院でも11月30日に春日町・蓮華寺の檀中において、各寺院総代様と共に実施致しました。寄せられた浄財は春日町社会福祉協議会と天台宗・一隅を照らす運動総本部の地球救援募金事務局に寄託致しましたことをご報告し、御礼に代えさせていただきます。




我が家は天台宗       第2話・日本仏教の宗派

 仏教は今から約2500年前、インドのお釈迦様によって創始されました。それがインドから中国に伝播し、朝鮮半島の高句麗、百済、新羅へと伝わりました。
 日本に伝来したのは、百済の聖明王が日本の朝廷に仏教の経典や仏像などを献上してきた538年です。

 奈良時代になって、南都六宗(法相宗、三論宗、華厳宗、律宗、倶舎宗、成実宗)が伝来しました(存続しているのは法相宗・華厳宗・律宗の三宗)。平安時代に入り、天台宗の最澄(伝教大師)と真言宗の空海(弘法大師)が現れました。

 平安時代末期から鎌倉時代には、良忍が融通念仏宗、法然が浄土宗、親鸞が浄土真宗、一遍が時宗、栄西が臨済宗、道元が曹洞宗、日蓮が日蓮宗をそれぞれ開宗しました。この七人の開祖たちは、皆はじめは天台宗の総本山である比叡山で出家あるいは修行した人たちであり、比叡山は日本仏教の原点と言えるでしょう。
 江戸時代に入って中国の禅僧・隠元が黄檗宗を開きました。
 以上の合計で13の宗派となります。




寺院さんぽ 
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延命山  安穏寺 氷上郡春日町稲塚1番地 旭 秀海 住職

 黒井駅より西へ約一キロ、バレーボールで全国制覇した氷上高校や兵主神社を過ぎると『一隅を照らす』の石碑が建ち、ここから山手に向かうと、大池の上に安穏寺はある。

 延命地蔵菩薩を本尊として、釈迦如来(過去)、薬師如来(現在)、阿弥陀如来(未来)を奉安する諸堂を有し、昔より「諸病悉除を請願し部落の安穏を祈る」とあり、他に雲中二十五菩薩も安置される。

 安穏寺のご詠歌には「あきの田の、かりそめならぬ人心、善根を積む稲塚の寺」とある。




身近な仏教用語A           「出世」

 世の中に出て立派に生活している人や、名を上げた時に「出世」という言葉が使われる。

 仏教では、二つの意味がある。一つは「世に出る」。つまり仏が衆生(生きている者)を救うためにこの世に出現されること。

 もう一つは「世を出る」。つまり、生死に苦しむ世間的な世界を越えること。仏の教えに従い、世間体を気にしないこと。

 立身出世した人の中で、自分の幸せだけでなく、世のために活動している立派な人がいる。このような人が本当の「出世」した人といえるのである。




編集後記
 今回の会報は「成道会号」として発行させていただきました。成道会の意味をご存知ですか?。悟りを開くことを成道といい、お釈迦様が悟りを得られたことを祝う日、つまり仏教の誕生日なのです。お釈迦様は紀元前566年に生まれ、35歳の年の12月8日に成道されたので、仏教は今年で2533歳ということなります。

 それにしても、仏教の教えは遙かな歳月を経た今も色あせることなく、混迷の現代にこそ大切な人間の生き方を説いています。今後ともこの会報を通じて、仏教の教えを解りやすくお伝えできるよう努力して参ります。

 皆様方からのご意見やご感想・ご寄稿等をお待ちしております。 合掌