伝教大師ご一代記(PDFファイル版)
 その1 その2 その3
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108の鐘108の鐘

 1、ご誕生

 比叡山の東のふもと坂本には、後漢の孝献帝の子孫で日本に帰化した、三津首(みつのおびと)の一族が久しく栄えていた。
 時に神護景雲(じんごけいうん)元年(767)8月18日のこと、坂本の地には蓮華の花がふり、めでたいしるしが現われ、おりしも三津首百枝(ももえ)公の家に玉のような男の子が生まれた。
 後に日本天台宗比叡山の開祖となる、伝教大師最澄上人であった。
 2、神童広野さま

 幼名は広野(ひろの)といい、神童のほまれ高く、しかも敬虔(けいけん)な心の持ち主であった。
 7才の頃、家塾に学んでいたところ、一を聞いて十を知る天稟(てんびん)の才能を発揮し、たちまち同輩を抜きんでて、ほとんどの学芸を修め、村人の師範と仰がれた。とくに仏道には、はやくから志があつかったという。
 3、仏門に入る

 12才のとき、近江国国分寺の大国師、行表法師(ぎょうひょうほっし)の門に入ることになり、ご両親のもとを離れて出家し、仏法を学ばれた。その後、15才にいたって得度(とくど)の許しをうけ、髪をおとして正式な僧侶となり、名も最澄と改め、さらに20才の春には奈良に赴き、東大寺戒壇院において具足戒(ぐそくかい)をうけ、僧侶としての資格のすべてを具備された。
 4、仏舎利のふしぎ

 出家ののち、行表法師のもとで勉学修行に励まれていた頃のことである。父上の求めに応じて、故郷の比叡山のふもと神宮禅院にこもり懺悔(さんげ)の行をおこなった。
 日ならずして、香炉の中に仏舎利(ぶっしゃり)を感得し、さらにその容器まで見つけられた。そこでこの仏舎利をまつり、礼拝供養されたところ、多くの神異(しんい)があったという。
 5、比叡山に入る

 奈良の都の仏教の実情をつぶさにみて、清らかな山林こそ、まことの仏道の行われるべきところであると痛感された。そしてついに延暦4年(785)7月に、故郷の地にもどって比叡山に登り、山中に小さな庵(いおり)を結んで、毎日、大乗経を読誦(どくじゅ)、ひたすら座禅瞑想に努め、一心に修行されたのあった。
 6、三尊仏を刻む

 あるとき、庵室の北の峰に、昼は紫の雲がたなびき、夜には白い光が立ちのぼるのがみえるので、ふしぎに思ってたずねて行くと、香気のある古木が見つかった。それは仙人達がお護りする霊木であった。
 大師は、早速、身を清めて一刀三礼、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三体の仏像をお刻みになった。